「熱帯収束帯」 Innertropische Konvergenzzone
熱帯域で北東と南東の貿易風 Passatwind (m. -es(-s)/-e) 、つまり北東貿易風と南東貿易風が収束する地域に発生する、地球を取り巻くように分布する広範囲の上昇流域のことを innertropische Konvergenzzone (f.)「熱帯収束帯」と呼び、略称では英語の Inter-Tropical Convergence Zone の頭文字を取って ITCZ とも呼ばれています。
これと並んで、英語の正式名称の綴りに近付けた、一文字違いの intertropische Konvergenzzone という語形も存在します。ただネット検索では innertropische 〜 の方がヒット数は多いようです。ドイツ気象局の気象語彙集 Wetterlexikon のページでは、国際標準の英語に合わせたのか intertropische Konvergenzzone を見出し語に採用していますが、ドイツ語版 Wikipedia では、 innertropische Konvergenzzone の方を採用しています( inter- の方で開こうとしても、 inner- のページへとリダイレクトされます)。
ドイツ国内でもまだ語形の統一には至っていないようで、両語形が併記されていることも多いです。
英語の正式名称にある inter- は「〜の間での」を表すラテン語由来の接頭辞です。南北の両回帰線の間の、という程度の意味を表します。一方のドイツ語に見られる inner- も「〜の内部での」を意味するゲルマン語系の接頭辞です。
どちらも子午線方向での気候の分布に着目し、「熱帯域内部に発生する(収束帯)」という程度の意味を表しています。熱帯収束帯は天球上の太陽の位置に合わせるかのように、1年周期で活動範囲を南北に変動させるのですが、それでも対流の活発な領域はおおよそ Tropen (pl.) 「熱帯」域と呼べる枠内に留まるため、その性質に着目した表現だと言えます。
というか、そもそも Tropen (pl.) 「熱帯」の語源となったギリシャ語 τροπή (f.) (発音:トロペー)自体が “turning” 「曲がること」「向きを変えること」の意味を持っています。これは太陽が Sonnenwende (f. -/-n) 「至点」(つまり夏至と冬至)に到達するたびに天球上での移動方向を「転じる」ことに由来する用語です。
(それにともない各地点での太陽の正中(南中もしくは北中)高度も、一年単位で一方の端から他方の端へと行き帰りを繰り返します。これを「回帰」といいます。)
熱帯の定義にもいろいろありますが、その中の一つとして、太陽が天頂を通り得る地帯、つまり南北の回帰線 Wendekreis (m. -es/-e) の間の領域のことを「熱帯」とする考え方があります。
ギリシャ語の τροπή (f.) および τροπικός (adj.) 「至点の」(発音:トロピコス)はラテン語に取り入れられて tropicus (adj.) となり、それが現代英語の tropic 「回帰線」や the tropics 「熱帯」、 tropical 「熱帯の」などへと繋がっていきます。
その熱帯領域「内部」に発生する収束帯、というのが innertropische / intertropische Konvergenzzone (f.)「熱帯収束帯」ということになります。個人的には、ドイツ語要素の inner- で始まる用語の方がどちらかといえば好きかもです(ゲルマン語要素とギリシャ・ラテン語要素のちゃんぽんにはなりますが…)。まあもともとギリシャ・ラテンに起源を持つ英語経由の外来語ですので、ドイツ気象局が英語に近い形式の方を正式な見出し語として採用していることも理解できなくはないのですが、できればドイツ語形の方も、いわば方言的バリエーションとして残しておいて欲しいものだと思います。
「対流圏」 Troposphäre
(まず、以下↓の一文はこのサイトに引っ越してくる前の別サイトにて、2021年にアップしていた文章です。)
以下は余談ですが、このギリシャ語 τροπή (f.) もしくはその同根語 τρόπος (m.) “turning” を語源として持つ語としては、他にも Troposphäre (f. -/ ) 「対流圏」があります。こちらは大気が鉛直方向で上昇と下降を繰り返しうる領域、つまりは対流が生じる領域、という程度の意味を持つ用語です。(言い換えると、気流が上昇から下降へ、下降から上昇へと「転じる」領域、ということです。)このため、「熱帯」と「対流圏」は、西洋語圏においては、どちらも(それぞれ天球上と鉛直方向という違いはありますが、)「まがる」「移動方向を転じる」という意味のギリシャ語を共通の語源として持っていることになります。
(ここまで2021年の記述。黄色の下線を引いた部分については以下の記述も参照のこと。)
Troposphäre 命名の経緯
引越し前のサイトでは上↑のように書いていたのですが、その後、改めて調べ直してみると、 Troposphäre という複合語の解釈については、ソースごとにいろいろと微妙な差異というか、ズレがあるらしいことが分かってきました。それについて以下、少し述べてみたいと思います。
まず、この語を命名したのはテスラン・ド・ボール Léon-Philippe Teisserenc de Bort (1855-1913) というフランスの気象学者です。
彼は凧や観測気球(仏: ballon-sonde 、英: sounding balloon, weather balloon 、独: Sonde, Wetterballon )を使用した高層観測を何度も行い、ある高度に達するとそこより上では気温の低下が止まることを発見しました。後日、彼は気温が下がらなくなる上空の層を stratosphère (日本語では「成層圏」)、それより下の層を troposphère (日本語では「対流圏」)と呼んで区別することを提案したと言われています。
[なお、ほぼ同時期、ドイツの気象学者リヒャルト・アスマン Richard Aßmann (1845 – 1918) も、高度およそ 10 km より上の高空に気温の低下が止まる、もしくは若干昇温する層が存在する事実を独自に確認しています。]
つまり、 stratosphère (f.) も troposphère (f.) も、現代になってから新たに作られた造語です。これらの語の後半部分については、多分 atmosphère (f.) 「大気圏」(字義:「蒸気の領域」)からの類推(つまり拝借した)と考えることが可能でしょうが、前半部分はなぜこのような形になったのでしょうか。
各国語版 Wikipedia の解釈
Troposphäre 前半の tropo- の部分について、ドイツ語版 Wikipedia は古典期のギリシャ語の名詞 τροπή (f.) を語源とし、「曲がる」「変化する」の意味に由来するとしています。
それに対して英語版 Wikipedia 、日本語版 Wikipedia 、フランス語版 Wikipedia では、同根の名詞 τρόπος (m.) を語源とするとしており、英語版では風が「回転する (rotate) 」意味、日本語版では「混ざる」意味に由来するとしています。フランス語版は「曲がること (tour) 」の意味に由来するとしていますが、基本は「回転する」説と同じと見ていいようです。
このように、 Wikipedia 内だけでもさまざまな見解がありました。
古典語辞書の記述
既に見たように、これらの語は現代に入ってから作られた新語なので、当然古典語の辞書には載っていません。ただ、それでもやはりテスラン・ド・ボールがどういう意図で古代ギリシャ語の要素を用いて新語をこしらえたのか、それを知るためにも、やはり由来となった古典語の意味をおさえておく必要があります。
そこで、 Liddell & Scott の Greek-English Lexicon という大部なギリシャ語辞書で調べてみました。(正確には、 Perseus というサイトで公開されているデータベースの検索機能を利用してみました。)
名詞 τρόπος
まず、前半の tropo- の部分の語源となったとされているギリシャ語の名詞 τρόπος ですが、この語には「向きを変える」意味と並んで “way, manner, fashion” 等々の意味がありました。「やり方」とか「態度」「様態」等々といった意味のようです。動詞 τρέπω “to turn” (発音:トレポー)と関係する名詞なので、「曲がること」という意味も当然あるのですが、そちらの説明はむしろ淡白で、「やり方」「様態」等々という意味での用例の説明の方が分量としてははるかに多かったです。
名詞 τροπή
一方、ドイツ語版 Wikipedia が語源としてあげていた名詞 τροπή ですが、こちらも動詞 τρέπω “to turn” と関係する名詞です。この名詞にも上で見たように “turning” 「曲がること」の意味がありますが、それに加えて “change” 「変化」の意味もあるようです。
上のサイトで名詞 τροπή を引くと、「変化」の意味での用例がいくつかあげられていたのですが、その中に次のような実例がありました。
ἁι περὶ τὸν ἀέρα τ. changes in the air or weather, Plu.2.946f;
出典は、プルタルコス (Πλούταρχος, 西暦46年頃−120年頃) の De primo frigido (Περὶ τοῦ πρώτως ψυχροῦ) , 946f とのことです。書名は、あえて訳すと「最初に寒さについて」くらいの意味合いでしょうか。
最後の τ. がここで問題にしている τροπή です。より正確には ἔν … ταῖς περὶ τὸν ἀέρα τροπαῖς, という表現のようです。ここでの τροπαῖς は前置詞 ἐν (英: in ) に支配された複数与格形です。青い下線を引いた定冠詞と名詞の間にも前置詞句がはさまっていますが、これは「空気(天気)をめぐる」くらいの意味合いでしょうか。なので全体では「空気(天気)をめぐる変化において」くらいの意味のようです。
ひょっとしてテスラン・ド・ボールはこの「変化」の意味を知っていたのでしょうか。
私的見解
まとめると、 Wikipedia で提案されている tropo- の語源の候補はギリシャ語の以下の2つの語です。
- τρόπος … 「向きを変えること」/「様態」
- τροπή … 「向きを変えること」「回帰」/「変化」
もっとも、残念ながら、私にはどちらの説が正しいのかを判断できるほどギリシャ語の読解力はありません。
ずっと上の方(黄色の下線を引いた箇所)で私は、「「回帰する」という意味を大気の上下運動にあてはめて、「対流する領域」のつもりでテスラン・ド・ボールは troposphère を命名したのではないか」と考えていました。
しかしながら、高度とともに気温が変化する領域としての troposphère 「対流圏」と、気温の変化しない「層をなす」かのように静的な領域としての stratosphère 「成層圏」、という風に彼が対比的に捉えていたとするならば、ここでの tropo- を「変化」の意味で捉えることも可能かもしれません。実際、とあるオンラインの英語語源辞書サイト( etymonline )で troposphere を引いてみると、この語は “sphere of change” の意味で解釈されていました。このように「変化」の意味でこの語をとらえている資料は、探せば他にもいくつか見つかるようです。
そう考えると、対流圏と成層圏の間にある遷移域である「対流圏界面」が Tropopause と呼ばれていることも示唆的です。「変化が休止する (pause) 面」として解釈することが可能だからです。(といってもこの語の命名はテスラン・ド・ボールではないのですが…)
「気温の低下が止まる (pause) 高度」がすなわち「対流圏界面」である、と見なすわけです。
さらに、もう一つ付け加えるならば、19世紀の半ば頃、ドイツの物理学者クラウジウス Rudolf Julius Emanuel Clausius (1822-1888) によって導入された Entropie (f. -/-n) 「エントロピー」という概念についても触れておく必要があるかもしれません。この語の後半部分 -tropie もやはりギリシャ語の τροπή 「変化」に由来するのだそうです。
「エントロピー」とは、もともとは熱力学において、物体の持つ熱量が高温から低温へと向かって移動していく際、ある平衡状態に入るとその移動が止まり、その逆方向の移動は起こらない、という不可逆的な「変化」「遷移」を定量的に表すために導入された概念なのだそうですが、専門外の私にはうまく説明ができません…
ただ、この語はテスラン・ド・ボールが troposphère という語を提唱する数十年前に作られた、当時としては新しい物理学用語ですので、彼が影響を受けたか、少なくとも語を作る際の参考にした可能性はあるのではないでしょうか。
つまり、高度が上がるとともに気温が低下していく大気下層を、熱がまだ対流などの仕事に使われている最中の、つまり「遷移」の途中の領域であると考えて、そこに τροπή 「変化」に由来する語を当て、同時にそこから上の、気温の低下が止まる成層圏を「変化が終わり、平衡状態に入った」層であると考えたのでは、ということです。
(まあ、成層圏でも、等温層のさらに上ではオゾン層の加熱によって気温がまた上昇を始めるのですが…)
残念ながらテスラン・ド・ボールがどういう意図で troposphère 「対流圏」と stratosphère 「成層圏」の名称を提案したのか、それを解説した本人の原文にまではまだたどり着けていないので、見つけたらじっくり読んでそのあたりのことを確認したいと思っているところです。
素朴な疑問…
ところで、ここからは余談のさらについでになるのですが、古典期のギリシャ語の辞書をいくら調べても、上記の名詞 τροπή (f.) や τρόπος (m.) 、動詞 τρέπω に「混合」「混ざる」の意味を見つけることができませんでした。この「混合」「混ざる」説は一体どこから来たのでしょうか。謎です…
ついでに言うと、「回転する (rotate) 」説もよく分かりません。ギリシャ語の τρέπω は「向きを変える (turn) 」という意味であり、「回転する (rotate) 」とは微妙に意味がズレている気がします…
それと比べると、上記のドイツ語版 wikipedia にあった「向きを変える」「変化する」 “Wendung, Änderung” 説は、古典語の意味を正しく伝えており妥当なものだと思います。
というか、それを言い出すと、そもそも stratosphère の前半部がラテン語由来なのに、 troposphère の前半部がギリシャ語由来というのも、考えてみれば統一がとれてなくて不思議な感じです。
(ちなみにギリシャ語にも στρατός (stratós) という単語はあるのですが、引いてみると、「(野営中の)軍隊」の意味が載っていました…)
ここまで来ると、命名者本人に命名の意図を聞いてみないことには如何ともし難いということになります。正直、ギリシャ・ラテンについては専門家でもなんでもない私のような素人には手に余る問題だと言わざるを得ません。
それはともかくとして、テスラン・ド・ボールは当初気温の変化に着目して troposphère 「対流圏」と stratosphère 「成層圏」の区別に気付いたわけですが、この「気温の鉛直方向の変化」は、大気の動的性質、つまり水平・鉛直方向の流れ(渦、移流、対流活動など)とも密接に関連する重要な概念の一つです。
対流活動が大気圏最下層のみにとどまり、そこより上では起こらない(と、当初は考えられていた)原因の一つがこの気温の鉛直方向の変化(鉛直プロファイル)に他なりません。
ひょっとしたら、ですが、高層大気についての研究が進み知見が徐々に深まってきた段階で、 troposphère の意味が、元々は「方向を変える領域」もしくは「変化する領域」だったものから「空気が動的に循環する(「渦をまく」もしくは「対流する」)領域」へと変わり、さらにそこから、結果として大気が「混合する領域」へと次々に解釈がスライドしていくうちに、いつの間にか元のギリシャ語自体にそのような意味があるものという勘違いがどこかで入り込んでしまった、なんてことはないでしょうか。
このあたりを確かめるためにも、命名の経緯がはっきりと述べられているテスラン・ド・ボール本人の原文になんとかたどり着く方法はないものか…とあれこれ模索する今日この頃です。


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